問題研究メインファイル

【慶應大(法)】

 19世紀には、列強による世界進出とも相まって、本土からは離れ、他国とは陸続きで接する「飛び地」が数多く出現した。飛び地の形成は、あからさまな武力行使の結果であることもあれば、租借地の設定や、領土の買収によることもあった。世界各地に多数の植民地が存在していた時代は終わり、今や飛び地は稀なものとなりつつある。しかし、現代においてもなお、飛び地は時に深刻な問題を引き起こしている。
 例えば、近年、香港では反政府デモが激化している。20世紀末に中国に返還されるまで、 香港はイギリスの飛び地であったのだが、このことが香港の状況を複雑なものにしている。問題の起源は、列強が中国にいくつかの租借地や租界を設けたことにある。イギリスは、 李鴻章が創設した北洋艦隊の基地が置かれていた威海衛も清から租借した。租借とは条約によって他国の領土を借用することであるが、租借期間が99年と長期に設定されることも多く、租借した国が租借地の立法権・行政権・司法権を行使することもあり、事実上の領土割譲といえる。とはいえ、清も他国に租界を設定していた。一例を挙げれば、朝鮮戦争時の1950年9月に国連軍が上陸作戦を成功させたことで知られる現大韓民国・仁川に、清は租界を設置した。

7792F072-972D-458B-982A-57FBCB8905D2香港➡︎珠江デルタの北岸。深圳市と陸続きに隣接する。南岸にマカオがある。香港島、九龍、新界からなり面積は沖縄本島と同程度。英国への割譲は3ステップ。①1842年の南京条約で香港島を永久割譲→②1860年の北京条約で香港島対岸の九龍を割譲→③1898年の新界租借条約で広大な新界地域を「緩衝地帯」と称して99年の期間で租借。南京条約はアヘン戦争、北京条約はアロー戦争の戦後処理だけど、新界租借条約は日清戦争後に列強が清に行った勢力分割政策の一環だよ。新界は香港の面積の90%にあたるがけど、市街の中心は香港島と九龍にある。新界と清の境界は深圳河。冷戦期は中国本土からこの川を渡れば香港に亡命できたため「中国のベルリンの壁」と言われたんだ。
AF460A41-FFBA-49E7-8F20-949B5063250120世紀末に中国に返還される➡︎新界租借の期間満了は1997年6月30日。英国はまず1950年に西側諸国としては突出して早く中華人民共和国を承認して香港問題を協議した。英国は租借地である新界の返還のみに留めようとしたけど、鄧小平とサッチャー首相の協議で鄧が水の供給停止や武力行使を示唆したためサッチャーが折れ、80年の英中共同声明で「一国二制度」「港人治港」を50年間は維持する取り決めで全面返還が決まり、97年7月1日に返還された。
45BAF055-1F7A-401A-ADC3-AF70A55F64FF李鴻章➡︎実に様々な切り口から出題される人物。出身は安徽省。彼を登用した上官は同郷の曽国藩。権力的な後ろ盾は西太后。洋務運動の推進者として変法派とは対立した。日本との関係では日清修好条規(1871)、甲申事変後の天津条約(1885)、下関条約(1895)にすべて全権として調印している。下関条約交渉時には暴漢に狙撃され負傷している。日清戦争後は三国干渉で助け舟を出したロシア帝国に接近し、1896年ニコライ2世の戴冠式に出席した際に露清密約を結んで満州でのロシアの権益を認めた。1902年には義和団事件後の北京議定書にも全権として調印した。
威海衛➡︎1895年日清戦争で日本軍の猛攻を受け壊滅した。1898年から英国が租借。1922年にワシントン会議の譲歩の材料として返還を表明し1930年中華民国に返還した。
D85EF6D4-55B1-457C-A5D7-1CD85D069016租借期間が99年➡︎香港新界地域の他には1898年のドイツによる山東半島の膠州湾租借地(中心都市は青島)、1899年のフランスによる広州湾租借地も租借期間は99年間。これらも日清戦争後の列強による中国分割政策の一環だよ。独仏は1895年に日本の遼東半島領有は「東アジアの平和を乱すもの」として三国干渉に参加した国なのにね。日本の旅順・大連(関東州)の租借期間も1915年にそれまでの25年から99年に延長された。ところで「広州湾租借地」は広東省の州都で古来からの大都市である「広州」とは無関係だからね。位置は海南島に突き出た雲州半島の東岸にあるよ。
朝鮮戦争時の1950年9月➡︎開戦は同年6月。周到に準備した北朝鮮軍に対し韓国軍と米軍は不意を突かれて敗走し1か月ほどで釜山近郊を残して韓国の全域を占領されたんだ。
B1EDEF39-D8CA-4143-A4EC-98C0E116187C国連軍が上陸作戦を成功させた➡︎立案者はマッカーサー。釜山から遠く離れた港湾都市の仁川に上陸して一気にソウルを奪還する作戦はリスクが高く、米軍首脳部は反対したけど、マッカーサーは押し切って実行。マッカーサーの予想通り最前線の釜山周辺以外の占領地は北朝鮮軍守備隊が手薄な「がら空き」の状態で、ほとんど抵抗を受けずに2万5000人の兵力が上陸でき、同月中にソウルも奪還した。北朝鮮軍は補給路を断たれ、勢いに乗った韓国軍・国連軍は38度線を突破して北進し10月には平壌を奪取し中朝国境に迫った。この頃には中国は参戦の準備を進めていたけど、マッカーサーも米国政府も「中国の参戦はない」とたかをくくっていたんだ。
仁川➡︎ソウル西方20kmの港湾都市。最初の開港地でもあり、ソウルが東京だとしたら横浜といったところかな。
清は租界を設置➡︎ここに大規模なチャイナタウンが形成された。この他に朝鮮(大韓帝国)各地に外国の租界があった。これは1910年の韓国併合後も1914年まで存続したよ。

 飛び地に関して頻繁に生じる問題の1つは、陸続きで隣接する国が返還要求を行い、緊張が生じることである。香港返還後もなお、イギリスがユーラシア大陸に領有し続けている飛び地があるが、その返還を求めている国もまた別の大陸に飛び地を領有しており、モロッコから返還を要求されている。また、緊張が武力衝突にいたることもある。イギリス同様、ポルトガルも世界各地に飛び地を有していたが、その1つであったゴアは、1961年にインドが武力を行使し、併合している。同じくポルトガルの飛び地であった東ティモールは、1975年に独立宣言を発したものの直後に隣接する国軍事侵攻を受けて併合され、21世紀に入ってから独立を達成した。

41DAF87D-D1B8-4047-BB19-41BCCA6DEAE6イギリスがユーラシア大陸に領有し続けている飛び地➡︎ジブラルタル。1713年のユトレヒト条約で英国がスペインから獲得した。
返還を求めている国➡︎スペイン。
別の大陸に飛び地を領有➡︎セウタとメリリャ。この矛盾に対してスペインは、ジブラルタルは連合王国を構成しない英国の植民地だがセウタとメリリャはスペイン本国の一部である、と主張している。この2都市はアフリカ大陸に存在するEUの飛び地でもあり、北アフリカからEUへの移住を希望する人々の経由地となっている。
ゴアは、1961年にインドが武力を行使し、併合している➡︎命じたのはネルー首相。
東ティモール➡︎首都はディリ。1520年にポルトガル人がこの都市を建設。18世紀後半から西ティモールにオランダ人が入り込み、1859年に東西の境界線が定められた。第二次世界大戦中、中立国であるポルトガルの領土であるにもかかわらず日本軍と連合国軍の争奪戦となり、数万人の島民が巻き添えで犠牲になった。
ECD720ED-5FD0-440F-BA63-A035BB4F54181975年➡︎前年の1974年にポルトガルでカーネーション革命が発生。新政府が植民地の放棄を決めたため東ティモールでも独立機運が高まった。
隣接する国➡︎インドネシア。当時はスハルト政権。
軍事侵攻を受けて併合➡︎国際連合は安全保障理事会、総会ともにこれを認めず非難したけど、東ティモールに左派政権が誕生することを恐れた西側諸国は、反共のスハルト政権による併合を黙認した。
21世紀に入ってから独立を達成➡︎2002年。21世紀最初の独立国。

 ゴアや香港はヨーロッパの海洋国が交易の拠点などとするために占領あるいは租借したものであるが、大規模な戦争の結果として飛び地が形成された場合もある。第一次世界大戦後、ドイツから内陸国ポーランドに海への出口が割譲されたために、東プロイセンはドイツの飛び地となり、現在、その一部はロシアの飛び地カリーニングラードとなっている。トルコのトラキア地方も、本土と海で隔てられていることからすれば飛び地ということができ、トルコ系王朝がヨーロッパ諸国との戦争に勝利して獲得した地がその起源となっている。

海への出口が割譲された➡︎ポーランド回廊。西プロイセンの大部分にあたる。ヴェルサイユ条約ではこの他に内陸部でも広大な領土がドイツから新生ポーランドに割譲された。
BB08BD5F-BD24-41A7-9428-5A84F81262C2東プロイセン➡︎中世にはドイツ騎士団領だった。17世紀にホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯の手に渡る。ベルリンを中心とする選帝侯領の本土ははるか西方にあり、このときから飛び地としての歴史がはじまる。1773年に大王フリードリヒ2世は第1回ポーランド分割に参加して西プロイセンを獲得し飛び地を解消した。
44C400F6-BFE1-4944-BAC8-ED530B885168ロシアの飛び地カリーニングラード➡︎1945年のポツダム会談で東プロイセンを南北に分割し南部をオーデル・ナイセ線以東の「回復領」とともにポーランドに与え、北部をソ連が獲得することが決まった。カリーニンは46年に死去した長老の指導者。1990年にソ連が崩壊すると、今度はこの地がリトアニアを挟んでロシアの飛び地となった。
トルコのトラキア地方➡︎東トラキア。西トラキアは現在ブルガリアとギリシアの領土になっている。中心都市はエディルネ。イスタンブールはトラキア地方とアナトリア半島(本土)にまたがる都市。

 アメリカ大陸に目を向けると、ロシアの飛び地であったアラスカは、買収されてアメリカ合衆国の飛び地となった。パナマ運河地帯も、この地に総督を置いて統治したアメリカ合衆国の飛び地であったが、この飛び地によってパナマの国土もほぼ中央部で東西に分断されていた。アメリカ合衆国は、アメリカ大陸西海岸に面した初めての領土としてカリフォルニアを併合して以降、アラスカ、ハワイ、フィリピンと、領土を着々と獲得し、太平洋での影響力を強めようとしていた。それだけに、パナマ運河は太平洋への出口として重要だったのである。

アラスカ➡︎買収は南北戦争直後の1867年。このときロシアの皇帝はアレクサンドル2世。州に昇格したのはそれから90年以上後の1959年で、49番目の州。
パナマ運河地帯➡︎1903年から租借。このとき米国はセオドア・ルーズベルト政権。1956年のエジプトによるスエズ運河国有化に影響を受けて、パナマでも運河地帯返還運動が激化。1977年に返還が実現。このとき米国はカーター政権。

 香港やパナマ運河地帯は隣接する国へ返還されることにより飛び地ではなくなったが、独立や離脱により飛び地状態が解消される場合もある。西パキスタン政府の施策に不満を募らせた東パキスタンは、隣接する国の首相インディラ・ガンディーの支援をの受け、独立した。アラブ連合共和国では、クーデタが発生したシリアの離脱により、飛び地状態は解消している。

東パキスタン➡︎独立後はバングラデシュ。
アラブ連合共和国➡︎エジプトとシリアの連合。1958-61年。1956年の第2次中東戦争でエジプトが政治的に勝利し、ナセルの国際的威信が最高潮に達していた時期だ。共和制同士のアラブ連合に対抗し同じハーシム家の王制であるヨルダン王国とイラク王国は1958年にアラブ連邦を結成。しかし同年にイラクでクーデタが起こり王制が打倒され、連邦は解消された。一方アラブ連盟は1945年創設の22か国が加盟する国際機構だ。

 20世紀末になって新たに成立した飛び地もある。1993年のオスロ合意により成立したパレスチナ暫定自治区の領土は、イスラエルを挟んで2ヵ所に隔てられており、事実上の首都が存在するヨルダン川西岸地区が本土、ガザ地区が飛び地といえる。2007年、ガザ地区は急進派のハマースによって制圧され、穏健派が統治するヨルダン川西岸地区と対立状態に陥り、イスラエルとの緊張も高まった。

穏健派➡︎ファタハ。創設者はアラファトで、現在の指導者はパレスチナ大統領アッバース。
対立状態➡︎2014年にファタハとハマースの連立政権が樹立され、対立は一応解消された。

 2017年、中国の「一帯一路」構想において重要な位置にある国スリランカは、南部にあるハンバントタ港を99年間の期限で中国企業に貸し出すこととした。1954年に5か国首脳が集まり、アジア・アフリカ会議の開催を提唱した会議が開かれたこの国の最大の都市や首都は西部にあり、南部は開発が遅れていたのである。このようにして、新たな飛び地がこれからも生まれていくのかもしれない。

「一帯一路」構想➡︎2013年に習近平が表明した広域経済圏構想。「一帯」は「シルクロード経済ベルト」。「一路」は「21世紀海上シルクロード」で、こちらは安全保障上の面からは「真珠の首飾り戦略」と呼ばれる。
1954年に5か国首脳が集まり、アジア・アフリカ会議の開催を提唱した会議➡︎コロンボ会議。 参加国はスリランカの他インド、パキスタン、ビルマ、インドネシア。インドシナ戦争の早期終結とインドシナ3国の独立支持を表明した。
首都➡︎1985年からコロンボ近郊のスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ。

 論述テーマ

99年の期間満了前に返還された租借地とは
4CE001AB-F1F8-4E46-8F55-996BBC48AD7Dなぜ租借期間が100年間ではなく99年間とされたのかは諸説あるが、実質的な永久租借と認識されていたようだ。しかし、香港新界地域以外の租借地はその後の歴史の変動の中で租借期間満了前に中国に返還されている。まずドイツの膠州湾租借地は第一次世界大戦に参戦した日本軍が1914年に占領。日本は対華21か条要求で権益の承継を要求するけど、1919年の五四運動を受けて1922年に中華民国に返還した(山東還付)。7年以上に及ぶ占領期間の間に日本は山東半島に権益を築き、これが1927・28年の3次に渡る山東出兵につながる。次にフランスの広州湾租借地。1940年にフランスがドイツに降伏するといったん自由フランスの管轄下になるけど、日本は43年にヴィシー政府と協定を結んでこの地を占領し日仏共同管理とする。45年8月15日、日本降伏とともにフランス新政府は同地を中華民国に直ちに返還した。そして旅順、大連。遼東半島は満州国の領土に入るけど引き続き日本の租借は続いた。45年同地は参戦したソ連軍に占領される。ソ連軍が満州から撤退した後もソ連と中華民国の取り決めでそのままソ連が占領。中華人民共和国成立後の51年に返還された。
Key Word

東プロイセン


ドイツ騎士団領が発祥/ブランデンブルク選帝侯領・プロイセン王国初期・ワイマール共和国の飛び地/第二次世界大戦後ポーランドとソ連に分割/ロシアの飛び地カリーニングラード